sunshine

雨戸を閉めて、電気を消して、真っ暗にして、
ドアの隙間から光が入り込んでくるようならそこにガムテープを貼って、
携帯電話の電源は切って、家電は全て電源を抜いて、
とにかく、光という光の全てを部屋から追い出して、
目を開けても目を閉じても、まるで景色の変わらない部屋を作って、

希望の光は見えるか?

見えるわけがなくて、
光はこの部屋にはないから、
そんなもの、見えるわけがなくて、

かといって絶望が見えるか?

やっぱり見えるわけがなくて、
そんなに簡単に絶望なんて手に入らないから、
そんなもの、見えるわけがなくて、

じゃあ、何が見えるか?

何も見えない。
何も見えるはずなくて、
光が全てだから、何も見えるはずなくて、

それでも、きっと光が見えると言うのは、
やさしさか、嘘か。

そういうやさしさばかり、
身につけてきた。

そういう嘘ばかり、
ついてきた。

でも実は本当に何か見えるんじゃないか?
って自分まで惑いだしたり、
いや、見える気がする、なんて
自分にさえ嘘をつきだしたりもするようになった。

本当は何も無いことを、
何も見えないことを、見るのが、いや。
何かあるはずと、思い込みたい。

何も無い。
まぶしすぎて直視できるかどうか。
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沈み、昇り、沈み、昇り

拾って捨てて、散らかして片付けて、吸っては吐き出し、行っては帰ってまた行って、そしてまた、もうすぐ夜明けだ。
繰り返し、繰り返し。伸びて縮んで、引っ張ったり押し込んだり、開けて閉めて、そして開けて、そしてまた閉めても、また開ける。
繰り返し、繰り返し。繰り返し、繰り返し、繰り返し。
春が来て、夏になり、秋がやがて冬になり、朝は夜になりまた朝が来て、繰り返し、繰り返し。
何千回、何万回、繰り返し、繰り返し、それでも今はある。
何億年、体感を超えた時間を、繰り返し、繰り返し、生まれて、死んで、また生まれ、知って、忘れて、思い出す。

どこから来たの?
どこへ行くの?

またきっと、いつか同じ場所にたどり着いて、

どこから来たの?
どこへ行くの?

繰り返し、繰り返し。
沈んで、浮かんで、また沈み、出会って、別れて、また出会い、今日も、明日も、明後日も。
繰り返し、繰り返し。繰り返し、繰り返し、繰り返し。

二度と来ない瞬間の繰り返し。
また二度と来ない瞬間が来て、また二度と来ない瞬間が来る。今も、今も、今も。
繰り返し、繰り返し。
作って、壊して、作って。描いて、消して、描いて。
どれも違うものばかり。これも、これも、これも。すべて、違うものの繰り返し。

始まって、終わって、始まって、永遠に始まって、永遠に終わって、永遠に始まって。永遠のうちの今。今もそう。今も、今も。

失って、得て、また失くして、繰り返し、繰り返し。
繰り返し、繰り返し、そのなかの、どの繰り返しとも違う今。その繰り返し。

どこから来たの?
どこへ行くの?
何もわからなくても、何も怖くない。
どの瞬間も、繰り返し。すべて違う瞬間の繰り返し。
二度と来ない瞬間の、いつまでも、永遠に続く、繰り返し、繰り返し、繰り返し。
何もわからない瞬間の繰り返し。吸って、吐いて、吸って、吐いて。

きらめく光の、いちばん輝く瞬間の繰り返し。
今も、光る瞬間の、一瞬の繰り返し。今この一瞬も。

今も、今も、今も。
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毒キノコは相当うまいらしい。
なぜ毒があるのにうまく感じられてしまうのだろう?
人間という動物にとって、毒性のあるものこそ苦く、あるいはまずく感じなければ、まさに死活問題になるのでは?と思う。言い換えれば、うまかったら喰っちゃうじゃん、そしたら死んじゃうじゃん、ということだ。

キノコに毒性があるかないかを見極める明確な基準は存在しないのだそうだ。
つまり、ハデハデな柄のものが毒で、地味なやつは大丈夫、とか、ここに生えてるやつはセーフ、とか、そういう見極め方はできないみたいだ。
毒があるから変な匂いがするっていうわけでもないし、触った感じで毒があるかないか判別することも出来ない。さらには口に入れても毒性があるのにうまく感じてしまう。

ふしぎ。ものすごく。

毒キノコが毒性を持つ意味って何だろう?
キノコじゃなくてもそうだ。毒を持つ生き物は、何のために毒性を持つのだろう?

喰われないため?

毒ヘビの毒性は、喰われないため、というより、喰うための毒だ。唾液が進化したものらしい。獲物を捕らえたとき、その消化を助ける役割があるのだという。それがないと消化不良を引き起こしてしまう。喰うために毒が必要なのだ。

喰われないために毒を持つ、というのは、合理的ではないように思える。
毒がその効果を発揮するのは、大概、その毒の持ち主が致命的なダメージを与えられてからだからだ。
たとえば、魚を喰う魚が、毒を持つフグを喰ったとき、喰われたフグは当然死ぬし、その後、その魚はフグに当たって死ぬ。それで、フグはその魚の仲間から獲物として狙われなくなる、とは到底思えない。その一匹がフグの毒に殺されてしまったことを、他の魚たちはどうやって知るのだろうか。また、どうやってその情報を世代間で交信するのだろうか。

警戒色で、自分は毒を持っていますよ、という情報を発信することは出来ても、受信する側が、それが警戒すべき色の組み合わせであることを知らなければ、意味はないのではないだろうか?本能的に、それを避けるべきである、と判断できるのだとすれば、その本能の正体って何だろう?本能的にそうなっているのだとしたら、僕はそこにものすごく神性なものを感じる。創造主的なものの存在を感じずにはいられなくなる。

毒キノコの場合、一見して判別することすら出来ない。食べちゃダメですよオーラを出していないものが毒を持つのは、喰われないための工夫とは思えない。ふしぎだ。

ただ、不思議がるのは人間ぐらいで、毒キノコにしてみれば、当然のこととして毒を持っているし、毒キノコが毒になる動物にとって、それは当然毒なのだ。本能にせよ何にせよ。
人間が時折見せる、大自然のことをすべて理詰めで理解しようとする態度は、そもそもおこがましいことなのだと、毒キノコは人間に語っているに違いない。
個で生きる人間らしい人間はそれでも大自然の公式を見出そうとするし、大自然の、大宇宙の中に生きる人間は「それは要するに、あるがままにあるということだ」と結論する。

でも、僕は考えてしまう。
たとえば、突然変異でネコジャラシが毒性を帯びて、ネコジャラシの穂に触れると皮膚がただれる、みたいなことになったとして、最初のうち、猫はそれでもネコジャラシでじゃれるのだろうけれど、やがていつか、猫はその因果関係を突き止めて、ネコジャラシを避けて通るようになったりするのだろうか、と。もしそうなったとしたら、猫はどうやってその経験を集積し、情報を交換し、代々に受け継いでいくのだろうか。「ニャー」のひとことで済むのだろうか。だとしたら、それは習性ではなく、慣習だ。猫に文化があることになる。そんなこともあるのだろうか、と。
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